29巻 episode 117. 大丈夫

この日は結局、待ち続けても矢野は来なかった。
電話での連絡も、可能性としては有ると思えたが、それも無かった。
連絡が無いのなら、こちらから動くのも一つの手かも知れないが、そっとした。
日が暮れてからも結構遅くまで粘ったのであるが、気分をもやもやと曇らせて帰宅する事になってしまった彼は今、こうして頭からシャワーを浴びている。
擦れ違いで職員室に彼女が訪れていた事を知らずに・・・。
風呂から上がり、Tシャツに腕を通した彼に、寛ぎの時間が訪れようとしていた。
彼は独身、彼女はいない。
彼のアパートの部屋に上がった女性と言えば、風早達と一緒に一度だけ黒沼と矢野、そして吉田が訪れたくらいである。
しかし、今夜だけは特別な夜になった。
珍しい事に、若くて可愛い女性が彼の部屋へやって来たのである。
こんな時間に突然この様な女性が自分の部屋へ訪れるとは、彼は考え及ばなかった。
玄関を開けると、そこには今日一日ずっと彼の頭から離れなかった娘が黙って立っていた。
降り続く雪のせいで手足がかじかんでいる様子であったが、顔の艶は良く、しっとりとした唇は鮮やかに色っぽく染まり、その色合いは彼女が愛用しているリップクリームのものとは違って見えた。
急に押しかけて来た格好の彼女は、決まりが悪そうに、もじもじとうつむいた。
「 ちょっ ドア閉めろ‼
風呂あがりなんだよ 風邪ひくわ‼ 」
「 あっ ああごめん‼ 」
彼は肩を震わせると、冷気から逃げる様に部屋の奥へと身を移した。
彼女はその時、背中を見てハッとした。
Tシャツを一枚着ただけの、彼の広い背中が、たいそう男らしく立派に見えた。
久しぶりに見た彼の背中からは、隆隆とした筋肉が感じられた。
身体を動かすのが大好きな彼は、おじさん臭くなって体が衰えていく事を酷く嫌った。
そのせいか、彼は実年齢よりずっと若々しかった。
もちろん彼がおじさん扱いされるにはまだ早過ぎるのであるが、彼女とは年が一回りくらい離れているにも関わらず、その背中が彼女の胸をときめかせた。
「 ま あがれよ 」
玄関で立ったままの彼女に、彼は思いつく限りの気遣いを始めた。
「 運いーぞ おまえ! 実は最近大掃除したとこだったんだ‼
おう なんか飲むか! 何がいい! コーヒーでいいな !!! 」
「 お ・・・・・・ おじゃま ・・・・・・ します ・・・・・・・・・ 」
靴を脱ぎ、そっと足を踏み入れた彼女が、和室に似合うちゃぶ台の前に腰を下ろすと、彼は入れたてのコーヒーを優しく置いた。
「 ・・・・・・・・・ あ ・・・ ・・・ ありがとう ・・・・・・ 」
彼女は明らかに言葉少なになっている。
「 ま 飲め! 飲め飲め‼ いーから飲め !!! 」
これから彼女が話すであろう、その内容に、彼はどのように慰めようか考えるのであった。
健康的で若い体作りをしている。
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