武士道のすゝめ

――― 現代を生きる、すべての人へ ―──

便利で豊かなこの時代ですが、私達は時折、何か「大切なもの」を見失っていると感じる事はないでしょうか。
私達を日々取り巻く環境は、何事に対しても比較や競争が激しさを増しており、人々をまどわす情報があふれかえり、真実まで容易たやすく曲げられてしまい、かつての信頼関係さえ揺らぎ易く、そして大切なものを失い、他人や自分を責めてしまう事が頻繁に起きています 。
現代という世界のあらゆる場所で、人々は様々なたたかいをいられて生きていますが、この混沌かつ理不尽とも受け取れる世界であっても、時を超えて、まだかすかに私達の頭上で輝き続けながら倫理へと導いてくれる、生きる指針となる光があります。
それは、かつて日本の侍たちが長い時をかけて作り上げた叡智えいち ――「武士道(Bushido)」。

侍は強靭きょうじんな精神力を持っていました。
その当時、侍は何を学び、どうおのれを磨いたのでしょうか。
この記事を読み進めていくうちに、あなたは気づくかもしれません。
武士道は、決して過去の遺物ではないということを。
それは今もなお、現代の私達の心の闘いに、静かに、しかし明確に語りかけてくれます。
おごりよりも誠実さを、迷い事よりも使命を。
謙虚さを支える強さを、忍耐の底にある平静を、再び見出すよう、あなたを誘います。
この記事の旅を終える頃には、あなたの中に眠る「内なる戦士」が目覚めていることでしょう。
さあ、原点に戻りましょう。
かつて日本を導いた、そして今はなお、世界を導きうる、この武士道という心の道へ。

著者
新渡戸にとべ 稲造いなぞう

~ 世界に武士道を伝えた農学・法学博士 ~


明治から昭和初期にかけて活躍した教育者であり、日本と西洋の架け橋となった国際人。
新渡戸は1862年、盛岡藩(現在の岩手県盛岡市)に生まれました。
幼いころから武家のしつけを受け、やがて札幌農学校(現・北海道大学)に進学。
その卒業後はアメリカやドイツに留学し、異文化の中で深く思索を重ねたのでした。
その後、彼はベルギーの高名な法学者の家で歓待を受けて数日を過ごした事がありました。
そんなある日、彼が氏と共に散策していたところ、会話が偶々たまたま宗教の話題に及びます。

「 君の言う所によると、
  日本の学校にいては、宗教教育を施すとうことがない、
  というようにも思われるが 」
「 現在の日本の学校に於いては、
  特に宗教教育として、特立した学科を設けてはありません 」
「 ああ宗教科がないとは。
 それならば、あなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか? 」

彼は法学者からこの質問を繰り返し受けましたが、直ちに答える事が出来ませんでした。
国際結婚後には彼の妻も、どうしてこれこれの考え方や習慣が日本で行き渡っているのか、という質問を度々彼に浴びせます。
彼はこの問いへの満足のいく答えを探しては、妻に話しました。
西洋の人々が聖書に基づく倫理を重んじるのに対し、日本人の精神の支柱は何なのか?
法学者からの質問と、妻からの度重なる問いかけが、のちに名著『武士道(BUSHIDO: THE SOUL of JAPAN)』を世に送るきっかけになります。
1900年、英語で著された『武士道』は、当時の欧米で大きな反響を呼びました。
それは、日本人の精神文化を初めて言葉として世界に紹介した書物でした。

また、彼は教育者としても偉大な足跡を残しています。
留学後は札幌農学校の教授として教育に従事し、恵まれない境遇の子供達のために夜間学校を設立するなど、教育の普及に尽力しました。
執筆した著書『武士道』が国際的に評価を受けると、1920年には国際連盟(今の国際連合の前身)の事務次長に就任し、国際平和に尽くしました。
晩年は東京女子大学の初代学長を務め、女子教育の発展にも寄与しており、その姿は知性を武器として戦う侍のようでした。
彼は1984年から2004年まで発行された五千円札の肖像にも採用され、日本を代表する知識人として知られています。

第1章 武士道とは何か ――― 起源について

武士道は、刀を振るう技や戦法、そして戦の心得や作法を説くものではありません。
それは、単に武士としての正しい生き方を示すものではなく、人のみちを照らし続ける光として当時の日本人の心の中にあり、力と美を備えた浩然闊達こうぜんかったつな精神となって生きて働いているものでした。
新渡戸は、武士道を一言でいえば、「武士が、あるいは武士階級が、日常生活の一切を規定する所の尊い責務のこと」であると記しています。
その本質は、大なる名誉と、多くの特権との寵遇ちょうぐうを与えられた者ほど人の模範であらねばならないという精神が根幹にあります。
武士道は、武士階級の発生以来、千数百年の長き間の武道的経歴にわたって極めて自然に発達してきた、武士の生き方の有機的産物でした。
新渡戸は、「 封建ほうけん時代になって、ややこれが完成したことから、武士道の起源は封建制の時代と共に自覚されたものであると云っても差し支えなかろう 」と記しています。

第2章 武士道の淵源えんげん

この章では、武士道がどのようにして形づくられたのか、その淵源が仏教・神道・儒教などの教義や思想に根ざしていることが記されています。
日本の風土と文化、そして人々の生き様の中で、これらの根本的な主義思想を長い時をかけて自然に吸収同化し得ることで、武士道は日本人の心の中に深く刻まれた壮大な倫理体系となり、日本人の精神文化の結晶として形づくられた “ 生き方の哲学 ” であることが記されています。

 仏教から 「避けることの出来ない運命に、従容として服すると云う心境」
      「危難もしくは災厄に臨んだときのストイック的な平静した心境」
      「無常の悟り」など
 神道から 「君主への忠」や「祖先への崇拝すうはい宗家そうけ国家への愛の情感」など
 儒教から 「孔子と孟子の教え」

第3章 義(正義)――― 侍の規範の中で最も厳しい教え

●『 義(正義)』とは何か

“Rectitude is the power of deciding upon a certain course of conduct in accordance with reason, without wavering.”
(義とは、理に基づいて揺るぎなく行動を決断する力である。)

この一文は、武士道の「 義 」を非常に端的に表しています。

まず、「 義 」とは理( 筋の通った正しい判断 )に基づいて行動を決断するという事であり、この決断は感情が働いて決めるものではなく、自分の利益や欲望で決めるものでもなく、周囲からどう見られるかを気にして迎合げいごうするものでもありません。

次に、「 義 」には “ 揺るぎなく ” という条件があります。
人というものは、怖くなったり損をしたくなかったりして、常に正しく決断するのが難しいのですが、義を備えた人は、たとえ感情的になっても、たとえ不利になっても、たとえ誰にあざけられても、正しいと決断した道をあやまりません。

●『 義 』の重要性

『 義 』は、武士にとっては金科玉条きんかぎょくじょうの、第1条ともうべき厳訓でありまして、
彼等にとっては、陰険な振る舞いと、よこしまな行いほど、醜悪卑劣なものは、人生に他に
又とないのであります。

真の侍を目指す者が、特に重んじたもの ――
それは、名誉でも主君への忠義でもなく、我が身の安泰でもありませんでした。
「義に生き、義に死す」
彼らにとって、この言葉は単なる理念ではなく、生涯を通して貫くべき生き方だったのでしょう。
義に背いて生きることは恥であり、たとえ散っても義を貫くことはほまれとされた時代。
新渡戸は、この精神を “ moral rectitude( 道徳的な直立 )” と表現しました。
当時の侍達は、身体の姿勢が乱れれば姿が崩れるように、魂もまた真っ直ぐでなければ美しくないと教わっていたことが、彼らの精神に影響しています。
命をけてでも義を貫く真の侍の姿は、どこか、最後の散り際まで美しい桜の花に重なります。
満開の華やかさだけではなく、潔く舞い落ちるその最後にまで美が宿る彼らの魂。
義に殉じて生を懸けた彼らの姿は、まさにその “ 散り際の美 ” を体現していた様に思われますが、この「 義 」は彼らにとって、ただの美学に留まりませんでした。
武力と権力を握っていた彼らの力は義によって昇華され、又は、これらの力を暴力へととさないための歯止めの役割を担いました。
もし義を備えない武士が力を振るうのであれば、彼らの力はただの蛮行ばかりが目立ってしまい、社会を乱す凶器の力となっていたことでしょう。
義を備えた者こそが、真の強者に成り得る ―――
才覚や富が如何いかに豊かであったとしても、義の無い者は真の強さを手にできません。
どれほど研鑽けんさんを積んでも、義を欠いた者は決して一流には到達できません。
義はおのれを正し、社会を正しく導くための決断の羅針盤として機能し続けます。

●『 義 』と『 勇 』

武士が「 義 」を金科玉条の第1条として己を律したのは、決断が常に理に基づいていなければ、力を誤って用いてしまう危険性を理解していたからでしたが、義を心得ていても簡単に実行できるものではありません。

『 義 』とともに武士にとって『 勇 』は、双生児とも云うべき、最大の武徳であったのであります。

これは、義が正しく決断するための “ 羅針盤 ” であるなら、勇はその “ 実行力 ” である、という事を意味しています。
義を心得ていても行動出来なければ、それは “ 知識としての義 ・理想としての義 ” であり意味を成しません。
また、勇気だけが突出すれば行動が無謀や暴力へと転じてしまいます。
この「 勇 」について深く記されている次章では、武士がどのような「 勇 」を理想としたのか、
そして、それが現代の私たちにどのような教訓を与えてくれるのかを探ってみようと思います。

第4章 勇気(敢為堅忍かんいけんにんの精神)――― 義を行動に変える力

●『 勇 』とは何か

現代で使われている「勇気」は、怖いけれど本心に従って一歩踏み出したり挑戦したりする事などのように、ものおじせずに立ち向かう気力を指しています。
これは現代社会において大変価値のある事ですが、武士道の「勇」はどうなのでしょうか。

『 勇 』とはただしき事をすことをう。

前章では新渡戸が、「 義 」と「 勇 」は双生児とも云うべき、武士にとっての最大の武徳であると述べた事について触れました。
しかしそれは、「 勇 」が無条件に称揚しょうようされていたわけではなく、「 勇 」は「 義 」によって発動されるのでなければ、徳行の中に数えられる価値がなかったと、この章で述べられています。
孔子は『論語』の中で、「 勇 」を次のように定義しました。
「 義を見てさざるは勇なきなり 」
この言葉を肯定的な文に改めると、「 ただしき事を為すは勇なり 」、すなわち「 勇とは義しき事を為すことである」となると、新渡戸は説明しています。
武士道の概念の中では、あらゆる種類の危険や冒険をかえりみず、それに突入するような向う見ず行為は全く称讃しょうさんされず、死に値しない事のために死ぬのは「犬死」としていやしめられました。
この真意は、徳川家康の孫の光圀みつくにと、古代ギリシャの哲学者プラトンが残した言葉を引用して説明されています。

―― 徳川光圀の言葉 ――
「 戦いの最も激しい場所に突入して一命を軽んずることが士の職分なれば、さして珍しくなく、
  血気けっきの勇は盗賊もこれを致すものなり。
  侍の侍たる所以ゆえん
  その場所を引退しりぞいて忠節ちゅうせつに成る事もあり。
  その場所にて討死して忠節に成る事もあり。
  生くべき時に生き、死すべき時に死する、これが真の勇なり。」

―― プラトンの言葉 ――
「 人が恐れるべきことと、恐れてはならないことを弁識することが勇である。 」

このように、道徳的なものからなる勇気は身体的なものからなる勇気と昔から区別され、広く認められていた事であり、武士の家に生れ育った者にして、幼少の頃から「大義たいぎの勇」と「匹夫ひっぷの勇」との区別を教わらなかった者は一人もありませんでした。

  • 大義の勇( 大勇 )
    親孝行、主君や国への忠義、人として行うべき正しい道など、正義を貫くための勇気
  • 匹夫の勇
    思慮分別が無く、感情や勢い、虚栄心に突き動かされた、衝動的で血気けっきはやった勇気
●『 勇 』の鍛え方 ―― いかにしてはらを練磨するか

勇気が真に人の精神に宿るならば、それは沈毅ちんきとなり、不動の人格となって現われる
のであります。

母はふところに抱いた幼い児童に、剛毅沈勇ごうきちんゆうの逸話を聞かせる事によって精神教育を施しました。
また、両親は幼児に勇敢と剛毅の徳を浸み込ませる為に、時には残酷とみまがう苛烈かれつさをもって、彼らの内にあるところの、ありったけの胆力たんりょくます為の労役を課し、その胆力を錬磨させたとも記されています。
当時の社会において死を身近な事として捉えていた武士達にとっては、苦痛や困難、そして恐怖や悲嘆の中にあってもそれに耐え、理性を保って冷静に判断しなければならないことから、愛らしい盛りの小児に試練を課す必要があったのでしょう。
しかし、これらの体験から得たものが、鈍感な慣れは勿論の事、忍耐が強化されるだけであれば、大義の勇は育ちません。
本書に記されている極端なスパルタ式といえる「 たんる 」ための数々の方法は、少年の敦厚とんこうな感情を若芽のうちに摘み取ってしまい、心を粗剛残忍にしてしまわないか、という危険性が確かに存在していました。
そのため、武士道では「 勇 」を単独で鍛える事はありませんでした。

●『 勇 』と『 仁 』

戦場に臨んで、我が良敵とするに値いある者は、常平生の親友たるに適して、勇武あり
名誉ある人でなければならぬ。

「 大勇 」を奥深い高みまで極めていける者は、ある一つの境地に辿り着く事があります。
上記の一文は、戦場において我が真の敵とするに値ある者は、平時においては親友となるに足る者であると、説明されています。
大勇を極めていける者が良敵とするところは、その者と同じように勇武と名誉のある人物であり、そうした人物が相手であれば、自身の勇武と名誉を賭けて戦う事が意味を成し、平時であれば親友になり得る人格を有している人物であると読み取る事が出来ます。
この境地を解り易く説明するために、本書では武田信玄と上杉謙信の挿話が用いられています。
武田信玄と長き歳月にわたって幾度も刃を交えた上杉謙信は、信玄が病死したしらせを受けた時、敵中の最も優れた尊ぶべき人物を失った事に、食事中で手にしていた箸を投げて長歎ちょうたんしたそうで、
「この世において、我と並び立つに足る敵を失いたくなかった」
という、勇武の極致きょくちに立つ者の気持ちが表れています。
また、山間にある甲州を領地としていた信玄ですが、東海道から購入していた塩の供給を断たれて困っていたところ、これを東海道領主の不勇不義の至りと判断した謙信は、以下の一書を敵である信玄に寄せました。
「 我、公と争う所は弓箭きゅうせんにありて米塩にあらず。
  こう、今よりさき、塩を我国に取られ候へ。多寡たかただ命のままなり。」
これらの挿話から伝わる大勇を極めし者の真情は、西洋の歴史と思想からも見出す事が出来ます。

―― 古代ローマの勇士 ――
「 ローマ人は金を以て戦わず、鉄を以て戦う 」

―― 西洋近代の哲学者 ――
「 なんじはその敵を誇りとすべし。敵の成功は、また汝の成功なり 」

また、大勇の境地に至る者が身に着けるであろう、次章で紹介する徳目である「 仁 」について、この章の最後に触れられています。

―― 孔子の言葉 ――
「 仁のある者は、必ず勇気を持っている 」

つまり、孔子も「 勇 」の極意は「 仁 」である事を説いています。
「 勇 」を刃に例えるなら、「 仁 」はそのさやといったところになるのでしょうか。
次章では、「 仁(慈悲)」について、詳しく調べて参ります。

第5章 じん(慈悲)――― 人を活かす心

●『 仁 』とは何か

武士道にあっては、愛敬の念、寛仁なる思い、同情及び憐憫れんびんと云うような、他に対する
情愛の心をもって、最高の徳としているのであり、人間の霊魂のすべての賦性ふせいの中で
最も高尚なものであります。

武士道の徳目である、義(正義)・勇気(大勇)・仁(慈悲)・礼節・至誠・名誉・忠義。
ことに温和な徳である「 仁 」は、これら全ての徳目に血を通わせて、徳目たらしめています。
孔子や孟子は幾度となく、民を治める者にとって最も必要とされる徳は「 仁 」であると説いた
そうで、「 仁 」が心に宿った者には独特の優雅な情操が身に付くとされています。

―― 孔子の言葉 ――

  • 王者は一日も仁慈の心が無かったならば、国は治まるものでない。
    国の君主が仁を愛すれば、天下に敵はいなくなる。
  • 仁は天が授ける最も尊い位であり、人が安らかに生きる拠り所である。
  • 君主が仁を持てば、不仁な者は存在しなくなる。
    君主が義を重んじれば、不義な者は存在しなくなる。

―― 孟子の言葉 ――

  • 国君に徳が高かったならば、招かずして百姓がこれに帰従し、
    従って国土は自ら平安に治まり、民は自ら富んで来る。
    即ち徳は本にして、利は末であるからである。
  • 仁のない者が国を得ることはある。しかし仁のない者が天下を得たことは一度もない。
  • 天は寒さと暑さによって万物を育む。君主も仁愛をもって民をおさめるべきである。

「 仁 」は寒暑をもって万物を育てる自然のように、思いやりと厳しさを併せ持って人を導くべきものであるという言葉は、「 仁 」の本質をよく表しています。
また、孟子は「 仁の不仁に勝るは、水の火に勝るが如し 」とも語りました。
火よりも本質的に強い水を正しく用いれば、必ず火を制する事が出来るように、仁もまた、正しく力が発揮されるならば、必ず不仁を制する事が出来ると説いています。
これは武力や権力などによって統制する残酷な支配よりも「 仁 」を持って取り組む方が、本質的に人と社会を治める力として優れている事を表していて、「 仁 」の必要性を強調しました。

臣民しんみんは天より委ねられたるところの愛すべき子であって、君主はその父である
と云う思想が、武士道精神の真髄しんずいであります。

国を挙げて武力角逐かくちくに日を送っていた日本の封建時代に在りましても、人々が極端な圧制無道から免れる事が出来たのは、いささかながらでも、為政いせい階級に仁徳があったからであり、武士が孟子の教えに充分の承認を与えていた事がうなずけます。

「 仁 」に「 義 」の観念を加味すると云うことをせずに、無暗むやみに慈悲にふけることは、
深くいましめなければならぬ所であります。

―― 伊達政宗の言葉 ――
「 義に過ぐれば固くなる、仁に過ぐれば弱くなる。 」

孟子の教えの通り、武士は「 仁 」の危うさにも目を向けていました。
それは「 仁 」が、これを受ける者に利益を与える事も、損害を与える事も出来る力を持っているからであり、「 仁 」が人を救済する力であると同時に、人を誤らせてしまう力にもなり得るからと表現する事も出来ます。
過ちや罪を犯した者に情けをかけて見逃した場合、本人が改心しないで更に過ちや罪を重ねれば、結果として本人を含めて社会全体を不幸にする事があります。
現代で起こり得る事例としては、親の甘やかし、上司や指導者の行き過ぎた温情と寛容などが挙げられるでしょう。
このように「 仁 」は、そのかけ方次第で人を伸ばす力にも、堕落だらくさせる力にもなり得る事から、特に王者、強者には昔から「 仁 」とそれに係る責任が強く要求されていたのですね。

平家物語で語り継がれる武士の情け
熊谷直実くまがいなおざね平敦盛たいらのあつもり

以下に記す物語は、史実と伝承が交錯する中で形づくられたものであり、全てが史実として確認されているわけではありませんが、たとえ実際の戦場がもっと苛烈であったとしても、武士が「 かくありたい 」と願い続けてきた理想の姿を後世こうせいに広く伝えるものとして、今日まで語り継がれてきました。
この物語を通して、「 仁 」あるいは「 武士の情け 」というものが万人から共感を得られるものなのか、是非読み解いてみましょう。


時は1184年(寿永じゅえい3年)の平安時代末期、天下分け目の源平合戦の事。
生臭い血と砂塵さじんに染まった一ノ谷いちのたにの戦場は、東国源氏軍の奇襲によって西国平氏軍が大きく崩れ、敗走する者であふれ返りました。
平家の公達きんだちは、船に乗って沖へ逃れ、屋島へ戻るほか道がありませんでした。
源義経の配下で参陣していた荒武将・熊谷直実くまがいなおざねは、手柄欲しさに平氏の敗走する浜辺へと馬を走らせていくと、そこで大層立派な甲冑かっちゅうに身を包んだ一人の武者に目が留まりました。
その武者もまた、遅れながらも馬を捨てて船へと逃れようとしています。
熊谷は、「 これを逃がしてなるものか 」と思い、馬を走らせて追いかけました。
「 そこにいるのは天晴あっぱれ名のある武人とお見受けする。
  敵に後ろを見せるのは卑怯であろう、いざ正々堂々と勝負なされよ。」
この呼びかけに意識を取られた平氏の武者は、矜持きょうじを持って引き返し、戦いに応じます。
これまで幾多の激戦で戦果を挙げてきた古武将である熊谷は、勇猛に一騎討ちの勝負を挑みかけ、馬を横付けにすると相手に組み付いて砂浜に転げ落ち、そのたくましい腕で相手を力強く組み伏せました。
さてこのような場合、挑まれた者が挑んだ者と同等のくらいであるか、あるいは同等の力量・能力をもっているかでなければ、血を流さぬ・首を斬らぬが戦の礼儀作法でした。
そこで、この屈強な荒武者は相手の名を知ろうと問いました。
「 吾こそは熊谷直実なり、そもそも和殿は何人であらせられるや? 」
しかし、この平氏の武者は、「 早く首を取って人に問え、見知っている者がいるはずだ 」と答えます。
「 それならば顔を見てやろう 」と熊谷は、その武者のかぶとを押しのけました。
すると、そこに現れたのは、我が子の直家なおいえと同じ年頃にして、まだひげも生え揃わない十六七の、うるわしい花をあざむくほど綺麗なかんばせではありませんか。
驚きのあまり、押さえ込んでいたその手を思わず緩めた熊谷は、その若武者を立たせると、父親がさとすように、この場から立ち去るように命じました。
「 あな美しのいたいけなる若殿や、早く御母の許へ落ちさせ給え。
  熊谷の刃は、和殿の血に染むべきものならず。
  敵にとがめられぬ間に、とくとく逃げのびそうらえ。」
しかし、この若武者は立ち去る事を拒み、そればかりか熊谷に、二人の名誉のためにこの場でおのが首を斬ってくれるように求めます。
「 さてさて東国武士というものは、ただ荒れくれたる男のみと噂にも聞き、
  又さように思い至りけるに、くも優しき武夫もいるものなのか。
  吾こそは、熊谷ごとき情を知ったる武士に、首討たれるのは本望なり。
  和殿も吾も討って功名せよや。
  首を取れ。武士が武士として討たれるのを恥とは思わぬ。」
これを聞いた熊谷は、鋭く光る氷の刃を白髪混じりの頭上へと振りかぶりました。
それは、これまで数え切れないほどの生命の弦を断ち切ってきた大刀であります。
しかし、熊谷の屈強な心はひるみました。
脳裏に彼の息子の姿が浮かび、この眼前の若武者と姿が重なってしまいます。
我が子の直家も今日の初陣ういじんを果たすべく、出陣の貝鐘の音に合わせて駆け出していった。
熊谷の力強い腕がわなわなと震えました。
どうしても討つ事が出来ません。
彼はもう一度、このいたいけな若殿に生命を粗末にせず、逃れるように求めました。
しかし若殿は其処そこから動こうともせず、「 ただく疾く首を取れ 」というばかり。
そのうちに、もう源氏の軍勢が雲霞うんかの如く押し寄せて来ています。
彼を何とか逃がそうとしていた熊谷でしたが、もはやそうはいきません。
敵を討つことは名誉であり、首を取らねば彼自身が臆したと味方勢に笑われる事でしょう。
いよいよ逃がす事が困難になった今、成す術もなく、「 これまでなり 」と思った熊谷は、大音声に叫びました。
「 味方の雑兵共に追いつかれなば、何者の手にかかるやもしれませぬ。
  同じことならば、直実が手にかけたてまつり、後々のとむらいをも奉らん一念。
  南無阿弥陀仏、即滅無量罪。」
一閃いっせん電光石火の早業、彼の大刀が振り下ろされた時には、白刃が若殿の鮮血で赤く染められていたのでした。
返り血を浴びた後、しばらくして気を取り直した熊谷は、首の無くなった若殿の腰に横笛が携帯されている事に気付きました。
そうか、敵陣に攻め入る前の早朝、聴き惚れてしまうほど美しく耳に届いてきた笛の音は、若殿のものであったか。
何とも重い気持ちのまま、彼は若殿の名を知るために、首と笛を手に取りその場を後にするのでした。

戦いが終わり、熊谷はその武名をますます輝かせて凱旋がいせんしました。
しかし、翻然ほんぜんと悟るところのあった彼は、これまでの勝利とは違っていて、報償や功名に心を傾ける事はありませんでした。
彼は武勲に輝く軍歴を捨て、剃髪ていはつして僧衣を身にまとい、法体となりました。
そして一所不住のきよい念仏行脚あんぎゃに余生を捧げ、西方さいほう浄土を乞い願ったのでした。
西方とは、太陽が一日の休息を求めていこう場所の事であり、仏法では極楽浄土とも呼ばれ、以後の彼は馬にまたがって東へ向かう時でも、西に背を向ける事を拒んだと伝えられています。

●『 仁 』はどのようにして人の心に培われたのか

すべて優雅の感動を育成するには、他人の苦痛、即ち惻隠そくいんの情、思いやりの情を涵養かんようする所以ゆえんであります。

武士階級においては、武勇や規律と並び、優雅な美徳を涵養する事が熱心に奨励されていました。
ここでいう「 優雅 」とは、上品さ、気高さ、精神の美しさ、そして人としての深みから生まれる落ち着きといった内面的な品格を指し、優雅な情操を育む事が、「 仁 」を培う道に繋がります。
戦いと死の恐怖にさらされる事の多かった武士達には、心がすさみ、他者の苦痛に鈍感になる危険が常に伴っていましたが、他者への慈悲と哀憐あいれんと仁愛の情の作興に貢献したのは、ヨーロッパにおいてはキリスト教であり、日本においては詩歌といった芸事げいごとたしなみであった事が記されています。
詩歌は、心に映るままの事柄を優雅な情操で表現し、はかなさや些細ささいな出来事までも含めた気づきを通して感受性を豊かにし、自然や他者への共感を養ってくれただけに留まらず、教養が高まり、ウィットに富んだ対応力も養ってくれました。
音曲おんぎょく(音楽・うたいなど)は、人の心に喜びや悲しみ、哀愁や高揚といった情感を呼び覚まし、言葉にならない感情を感じ取る力も育てました。
このように、武士達が優雅な情操を育んで高尚な情緒を培う事を目的として芸事を嗜み、その過程で「 仁」も培われていった背景から、「 仁 」は生まれつきで備わる徳ではなく、誰でも培う事の出来る、万人から受け入れられる徳なのですね。

●『 仁 』と『 礼節 』

他人の情感を重んじることから生まれる謙虚さ、慇懃いんぎんの心は「礼節」の根源を成すもの
であります。

「 仁 」のある者は、必然的に「 礼節 」を重んじます。
「 仁 」が心の在り方を表現する徳であれば、「 礼節 」はそれを外に表現する徳であり、この関係を植物に例えるなら、「 仁 」は根であり「 礼節 」は花であると言えるかも知れません。
とすれば、「 仁 」の心がなければ「 礼節 」は成り立たず、花を咲かせてくれない植物のように、その礼は単なるマナーや演技という事になるでしょう。
次章では、武士が如何いかにして「 仁 」を日常の振る舞いとして結晶させたのか、「 礼 」という徳を調べていきます。

第6章から第13章までは、準備が整い次第、公開致します。
しばらくお待ち頂けますようお願い致します。

第14章 武士道が求めた女性の理想像とは ――― 女性の教育と地位について

武士道は本来、男性のために作られた徳目や教訓ですが、第14章では主に当時の日本社会における「武士階級の女性像」が紹介されています。
新渡戸の描く武士道による女性の理想像は、「従順な家庭人+勇敢な女傑じょけつ」という二面性を持っており、現代人の思考からすると自己犠牲的な所が少々厳しいと感じられつつも、ほこり高く強い女性像が記されています。

家庭的でありながらも女傑としての強さを求められた

武士道は、武士の妻に「優しく従順で家庭的な妻」という事だけではなく、時に毅然きぜんとした強さを持つ女傑としての徳目を重んじました。
この「女傑」像は、平安期の才女さいじょや江戸期の才媛さいえんとも異なり、武士の妻または娘としての精神的な一面を持つ事を意味しています。
つまり、当時は女性も武士道精神を体現する事が求められており、夫がいくさに出ている間に家を守るのは主に妻の役割であった事から、武士階級の女性は家の統率や精神的支柱としての役割を担っていた事が強調されています。

  • 「自らの感情を抑え、家族や家のために犠牲になる強さ」
  • 「敵前でひるまない、精神的なつよさ」
  • 「非常時には武器を手に取り、子や家を守る覚悟」
● 「内助ないじょの功」という理念の重み

武士階級の女性は、自らの意志に基づき父や夫または子のために従属的な奉仕献身を貫きました。
それは、女性の自己犠牲とも言える奉仕献身が、この時代においては自己自身をより高次の目的に役立たせるという真理のもとで、美徳で名誉あることとされていたためであり、「夫や家を支える役割に徹する」という点については、現代の価値観では賛否が分かれる部分となっています。
武士道における女性の重要な役割は、「夫を支えること」「家を治めること」とされていますが、それは決して女性を従属的存在として記していません。

家庭を統治し、子を教育し、家の名誉を守る責務を担う。

これは現代で想像する「専業主婦」像とは異なり、“女主人”としてのリーダーシップを求められていたのでしょう。

● 夫婦関係における「相互尊重」

武士道における夫婦の関係は「主従」ではなく、互いに家の名誉と運命を背負っている対等な関係としています。

「夫は外を治め、妻は内を治める」

ここには、男女平等思想とは異なる、日本独自の「相互補完的平等観」が垣間見えます。

● 女性教育の理念

武士道が培われてきた当時から、女性にも読み書きや礼儀作法に芸事など、一定の教育が求められていました。
ただし、それは現代のキャリア志向の教育とは異なり、主に以下の事を目的としていました。

  • が子の人格形成と家訓の継承
  • 家計の管理・交際・礼儀作法
  • 夫を支え、家を治めるための知識や教養

更に「忍耐」や「恥を知る心」など、武士道ならではの精神的修養もありました。
我が子に武士道の精神を伝える「最初の教師」は母親であったため、当時の社会構造の中で、女性教育は「家の存続」を軸に考えられていたのだと読み取る事が出来ます。

刃を取る覚悟

女性が襲われた時には、常にふところに隠し持つ短刀で身を護るか、自害する覚悟がありました。
これは、武士の妻または娘としての覚悟を背負っていた事を示しています。

○ 現代に活かそう!武士道の女性観

武士道が描いた女性像の中には、現代では通用しない価値観が含まれていますが、その根底にある強さ・誇り・支える力といったものの価値は普遍的であり、現代の価値観に合わせて再考する事で、いつの時代にも通用するものになります。

以下の考え方を、家庭や職場、社会での関係づくりに活かす事が出来れば、武士道は現代を生きるあなたにも新たな価値をもたらしてくれるのではないでしょうか。

「武士の妻は、夫の留守を守る城代じょうだいであり、家の統治者でなければならなかった。」

妻はただ「夫に従う存在」ではなく、家庭という城を守る司令官としての立場も求められていた事から、現代では「家庭や組織で統率力やリーダーシップを発揮する」という形で、この考え方を活かす事が出来ます。

「妻は家を治め、夫の名誉を守り、家名を高める者なり。」

妻は表舞台に立たずとも、家庭を守り、子供を育て、夫を支える事で家の名誉を保つ 、内助の功を求められてきましたが、この概念を「裏方で組織を支える力」「縁の下の力持ち」という形で捉え直せば、家庭だけでなく職場や社会でも応用出来ます。

「母は家庭における最初の教育者にして、武士道精神を子に伝える者なり。」

武士の妻には読み書きや芸事、礼儀作法などの他、忍耐・謙虚さ・品格といった人格形成に関わる徳目も大切にされていました。
教育の本質は、単なる知識伝達ではなく人格の形成であるという点は今も変わりません。

  • 感情に流されない冷静な判断力
  • 礼儀やマナーを重んじる品格
  • 自ら学び続ける姿勢

「侍の婦人は短刀を懐に忍ばせ、いざという時は名誉を守るため命を絶つ覚悟を持て
 と教えられた。」

非常時には武器を手に取って子や家を守り、時には自害する覚悟すら求められていた当時ですが、ここから学べるのは「信念を貫く強靭な勇気とほこり」でしょう。

  • 家族や仲間を守る強さ
  • 困難に立ち向かう精神的な強さ
  • 突発的な状況でも冷静に判断する力

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